伝説の町

トレドという町は、魔法、催眠、夜行性、放浪者……という言葉の似合う、城壁の裏に隠されたもうひとつの顔があります。それが、ケベードやエル・グレコ、ベケールやブニュエル、そしてギタリストの巨匠パコ・デ・ルチアの心を捉え、彼らに霊感を与えたのです。

伝説は、文学の天才や歴史上の無名の人々、少数者が口から口へと言い伝え、大衆の知恵の中に残してきた思い出の、生きた証人なのです……。

伝説は、トレドがもうひとつの素顔に内包している、陰鬱でいながら魅力的な部分の誠実な反映なのです。

「タルペヤの岩」の伝説

言い伝えによると……

伝説によれば、古代ローマのロムロ時代に、ローマ人たちは、ローマからあまり遠くないティベルとアペニノスの間の村に住んでいたサビーノス人の攻撃から街を守るため、カピトリオの要塞を塹壕で固めました。この話の中で、ローマ人が語らなかった伝説があります。この城塞の衛兵の娘、若きタルペヤは、敵サビーノスの王ティト・タシオと恋に落ち、彼と会うために城門を開けた、という話です。

誇り高きサビーノス人たちは、裏切り者に関して、いかなる例外も許してはいませんでした。敵が自分たちと内通することも認めていませんでした。彼らはカピトリオの城塞に一歩踏みこむやいなや、裏切り者タルペヤを重い楯で圧迫し、殺してしまいました。

伝説は、わたしたちにいつも、事件の裏に隠された、素晴らしくて重要な詳細を伝えてくれます。歴史や真実があまり導入されないため、多くのバージョンが可能になり、私たちは、どこかで聞いたことがある話を耳にすることになるのです。歴史的な事件に関しても、誰がどのように解釈するかで話が異なることもあります。この意味で、ここでは裏切り者タルペヤの死に関する2通りのバージョンをお伝えしましょう。最初の話の中で、裏切り者の彼女をカピトリオの要塞の最も高いところにある岩から投げ落としたのは、彼女の民族ローマ人でした。裏切り者は常にこの岩から河底に転げ落とされていました。現在もこの岩はあり、タルペヤの岩として知られています。

別のバージョンでは、若いタルペヤの恋が強欲に描かれています。娘タルペヤは、サビーノス人が左手に付けていた金のブレスレットと引き換えに城門を開けたというのです。この場合、タルペヤは、ブレスレットの重さに潰されました。彼女が自ら死を招いたということになっています。

ローマ人は、裏切りの罪を背負った人たちを投げ落とすために、タルペヤの岩を使いました。

トレドの中心で伝説と現実の間を行き交いながら、私たちは、ローマ人――4世紀前半、この町の統治者だった――が、彼らにとって異端者だったキリスト教徒に彼らの法律を課し、習慣を押し付けていたことを知るのです。当時のスペインの統治者ダシアーノは、法律の例外を命じ、キリスト教徒の富を奪い取り、教会を破壊し、宗教に関する本を焼いてしまいました。ローマの多神教の神様たちを認めない者はすべて、町にある牢屋の中でも最も陰気な地下牢に連れて行かれました。この地下牢は、ユダヤ教のシナゴーグがあるトランジト散歩通りのすぐそばの、タルペヤの岩として今日知られている岩場にあったのです。罪人として死刑を宣告された人たちは、ローマのタルペヤの岩で行われていたのと同じように、確実に死ぬように、岩場からタホ川の深淵に向かって、投げられました。

この恐ろしい状況の中、愛が、もう一度、顔をのぞかせます。

トレドの牢獄の看守や統治者は、ローマの宗教の熱狂的な信者で、パウラかオクタビーヤと言う名前だとされる美しい娘の父親だったと考えることができるでしょう。彼の娘は内緒でキリスト教を信仰し、クレオニオという若いキリスト教の青年と恋に落ちていました。

紀元306年12月9日、パウラは、牢獄のパティオを散歩していた時、2列のローマ兵に挟まれて、タルペヤの岩場を引きずられている恋人を目撃しましたが、父親である狂信的な看守の合図で、彼はここから突き落とされてしまいます。若いクレオニオは、このはかない逢引きで、口の中に隠しておいた小さな十字架をパウラに渡しました。くちづけをされた十字架を、彼女は胸にしまいました。

クレオニオの死後、若いパウラは悲しみでいっぱいになり、痛みがあまりにも深かったので、後追い自殺をしてしまうのです。埋葬する前に彼女の父親は、彼女の衣服の中から小さな十字架を見つけます。彼女の愛するクレオニオの死でしおれてしまった若き娘の自殺の動機が、これで明らかになりました。この伝説の別バージョンでは、娘の死後、この看守自身キリスト教に改宗し、そのため、タルペヤの岩から投げられたということになっています。

この伝説の更に別バーションでは、クレオニオの死後のパウラの深い悲しみについては触れていません。そこでは、クレオニオの死と同じ日、硬く冷たい岩の独房の中で、トレドの乙女レオカディアが殉死したということになっています。彼女の指には、十字架が彫られていたということです。

1953年、パレンシア出身の彫刻家ビクトリオ・マチョが、彼の家とアトリエを、タホ川の対岸の山肌に点在するシガラールの屋敷や大自然の美しい眺めが広がるタルペヤの岩に建設することを決めました。彼が亡くなった時、彼は作品のすべてをスペインの人々に寄付した上、作品をトレド市から動かさぬようにと遺書に書き遺しました。こうして彼の名前を冠し、同時に「タルペヤの岩(ロカ・タルペヤ)」としても知られる「ビクトリオ・マチョ現代美術館」が1967年に開館しました。幸いなことに、苦しい拷問が文化に転向したのです。

「接吻」の伝説


言い伝えによると……

その昔、ナポレオンの軍隊がトレドを占領していたときのことです(1808-1812)。石畳の道や多くの歴史的建物はフランス軍で埋まり、教会や修道院は荒れ果てたまま、軍隊の宿営地となっていました。あれは確かサン・ペドロ・マルティール教会でした、ある兵隊の一団が、本当に背筋も凍る体験をしたのは。彼らは死ぬまで忘れなかったことでしょう。

すべては夜も更けた頃に起きました。ドラゴン連隊と若い大尉がソコドベール広場にけたたましく到着した時のことです。世話係の兵隊が1人で彼らを待っていました。正式のあいさつを交わした後、到着したばかりの若い大尉はトレドでの寄宿先が修道院だと知らされ、もっとふさわしい場所はないかと尋ねました。しかしアルカサルがすでに満員で、サン・フアン・デ・ロス・レージェス修道院でさえ、兵士たちは折り重なって寝ている状態だということで、サン・ペドロ・マルティール修道院を連隊本部として認めざるを得ませんでした。

そういうことで、大尉と連隊は、その場所に着くまで世話係に従っていました。修道院に一歩入ると、旅の疲れから兵士たちはたちまち眠気に襲われ、わずかな光の下に浮かび上がっていた、光が細いため影さえ消えかかっていた、数体の白い大理石の像には気が付きませんでした。しかしながら若い大尉だけは、暗闇の中、1体の像を見続けていたので、翌朝、ソコドベール広場での集会で、一睡もしなかったことが仲間たちにばれてしまいました。仲間たちは、どうして彼が眠らなかったのか知りたがりました。その理由が、1人の女性が現れたためだと知って、皆びっくり仰天しました。この理由を巡る会話がはずみ、それが単に大理石の像だと聞かされた時、その場は驚きと爆笑の渦に包まれました。しかし実際、芸術家によって彫られたその女性像は非常に凛々しい姿と表情をしていました。若い大尉は白い石の像が放つ美しさを発見する喜びで疲れも忘れ、彼女に連れ添っている紳士像に嫉妬心さえ抱いたほどでした。彫刻の横にあった説明によれば、そこはフエンサリダ宮殿の4番目の伯爵、ペドロ・ロペス・デ・アヤラと、その妻エルビラ・デ・カスタニェーダの霊廟で、この2体の彫刻はこの伯爵夫妻を祭った像だったのです。

そのような話しを聞かされると、皆、大尉の「恋」をもっと知りたくなって、うずうずしました。そして、一刻も早くその崇高な彫刻を自分の目で確かめようと、その晩、みんなで修道院を訪れることにしました。結局、到着したばかりの連隊の歓迎会も兼ねた会議は、夜の帳が下りるまで続きました。ほとんどの仲間が面白がって話を続けている間、ワインの効果でしょうか、大尉は回りの騒ぎを気にも留めずに、うっとりと美しい淑女の彫刻を見つめていました。仲間たちがそれに気が付き、乾杯をしようと大尉に呼びかけました。しかしながら、大尉はグラスを手に持ったまま、今いる場所から、伯爵の彫刻に向かって、彼の妻の美しさをほめたたえる、当てこすりにさえ聞こえる感謝のことばを述べたのです。そう言うや否や、彼の怒りは爆発し、ペドロ・デ・アヤラの石の彫刻に、グラスの中のワインをぶちまけました。仲間たちは狼狽し、生きた女性の美しさにやられてしまったかのように見える彼を落ち着かせようとしました。それはただの大理石の塊にすぎなかったというのに。

その時、大尉の目には、エルビラ・デ・カスタニェーダ侯爵夫人だけしか映っていませんでした。そして、この女性の魅力に抗うことができず、その肉体を欲し、彼自身の唇を、彫刻の冷たい唇に近づけたのです。彼は、自分の狂おしい気持ちを鎮めるために、接吻しようとしていました。現実の世界に戻ることができない薄暗い迷路の中で、自分を見失ってしまい、夢とうつつが区別できないほど混乱した精神を落ち着けるために。彼女を抱きしめ、感じたいと思っていたのです。

この狂気の沙汰は、仲間たちがその結末を避けるための指一本さえ動かせなかったほど、大尉に憑依していました。ようやく誰かが、怖気づきながらも大尉に向かい、死者をそっとしておくように告げました。しかし大尉は、「恋人」の唇を奪おうとするのを止めませんでした。ところが、それ以上先に進むことはありませんでした。

なぜならちょうどその時、伯爵が重い腕をもたげ、大尉の頭の上に振り下ろしたのです。大尉は卒倒してしまいました。彼が床に倒れた時、仲間たちはであたふたしました。大尉の口と鼻から大量の血が流れていたからです。誰も彼の身体を動かす勇気がありませんでした。こうして若い大尉は亡くなってしまいました。

「切り傷を負ったキリスト」の伝説

言い伝えによると……

王冠を継ぐ子どもに恵まれなかったためということよりも、政治の失敗で秩序が保てなかったことから「無能(インポ)」と呼ばれたエンリケ4世時代の不幸と混乱の時も過ぎました。貴族たちの間では、弱い王の権力を誰が引き継ぐかを巡って合戦が起き、カスティーリャは炎に包まれていました。トレドでは、カトリックの新派と保守派の闘争や、旧派のカトリックを指揮していたアヤラ家との闘争がありました。避けられない形で勃発したこの争いは、特にカテドラルの辺りで一番激しく繰り広げられ、壁には抗争者たちの返り血が点々と残っていました。

サン・フスト地区近くの古くて立派な屋敷では、部屋の斜め格子の窓に、女性がひとり、持たれかけて誰かを待っていました。短くも休戦協定が結ばれたことを知って、彼女イザベルは心配そうに、いいなづけのドン・ディエゴ・デ・アヤラの到着を待っていたのです。やがて、家の表玄関から足音が聞こえてきました。ディエゴの熱い胸の中に飛び込める喜びで、いさんで駆けつけたものの、ディエゴはそこにいませんでした。扉を開けた時、突然鉄の腕に取り押さえられ、助けと絶望の入り混じった声を叫ぶ口はがさつな手で塞がれ、彼女は息も絶え絶えになってしまいました。

この事件を知らないディエゴ・デ・アヤラは、サン・フスト広場に到着していました。ここ数日の間断ない戦争で疲れ切っていましたが、愛しいイザベルに会えると思うと、エネルギーがまた湧いてくるのを感じていました。街角に立つ慈悲のキリスト像の前でお辞儀をすると、彼の気持ちには元気が戻り、さあ彼女の元へと先を急ごうとした時、ふと短い叫び声が聞こえてきたような気がしました。不安がよぎり、彼の恋人の家への道を一目散に向かうと、誘拐者から逃げようともがく、猿ぐつわをされた女性を引きずりながら、角を曲がろうとしていた覆面の一味が目に入りました。

怒りと憤りで、ディエゴが鞘からこの乙女を助ける剣を抜くや、柄頭の正確な一撃で、1人の刺客を打ち倒し、彼女を助けだしました。なんと! 彼女の身体を抱き起して瞳を見た時の驚きときたら! 誘拐される寸前だったこの乙女はまさしく、彼が会いたかった女性だったのです。いいなづけのイザベル!

剣客ディエゴは12人の悪党たちに取り囲まれていました。イザベルの震える身体を抱えていては多すぎる人数だったので、じりじりと退散せざるを得ませんでした。右手で斬り込みながら敵の列を割ろうとした時、敵の1人が傷を負って倒れかけ、仲間に命令していた親分の頭巾が剥がれ落ちました。その親分は臆病にも刺客仲間の後ろに隠れましたが、その悪い目つきと皮肉な笑い方で、アヤラ家の1人であるディエゴには、彼の最も残忍なライバル、ロペ・デ・シルバだとすぐわかりました。ロペ・デ・シルバは以前にもイザベルに近付き、ディエゴを捨てるように迫ったことがあったのです。彼は、その時の仕返しをしようと、この破廉恥な事件を練った首謀者でした。茫然として一瞬、ディエゴが手を緩めた時、冷たい鉄が彼の肉体を引き裂くのを感じました。

限界まで抵抗したものの、怪我を負い、ディエゴはサン・フスト教会の壁の隅にもたれかかりました。ふと見上げた時、頭の上に、ほのかな光の中に包まれた慈悲のキリストの姿がぼんやりと見え、同時に、彼のいいなづけの息が詰まるような泣き声と、天に助けを求める祈りの声が聞こえました。

「神様! どうか、御心のままに。でもお願いです。彼を助けてください」

すると、この崇高な瞬間、壁が開き、庇護者がドン・ディエゴとイザベルを抱きかかえて教会の内側に呑みこむと、壁は再び閉じました。深い夜、まるで強い幻覚か力が作用して、壁を目には見えない透明な漆喰にしたかのように。閉まる時、開いていた積み石もまた、壁を平らな静かな姿に戻したので、ドン・ロペの誘拐団たちは、剣を振り上げたまま、氷でできた像のように固まっていました。しかし驚きでいらついた刺客たちは、すぐにまた、この崇高で硬い石の壁に反撃し、不満をぶちまけながら切りかかりました。憎しみのあまり理性を失った者たちが、壁に消すことのできない刀傷を残していると、ロペ・デ・シルバの激怒した声が轟きました。

「教会だ! やつらは中にいる! 門を倒して、あの呪われたドン・ディエゴを殺せ! こやつに命を奪われた我が仲間たちの血の仇を打つのだ!」

この群れはひしめき合って登りながら教会の門を乱暴に攻撃しました。もし人智を越えた力が何も起こらなかったら、きっと門は開いていたことでしょう。突然、誰かが動かしたわけでもないのに、教会の鐘が鳴り始め、夜のしじまを引き裂きました。するとすぐに、この地区すべての家の窓が明るくなり、警戒した住人たちがたくさん道に出てきました。ロペ・デ・シルバは、武器を持った人々が広場に殺到したのを見て、負けを悟り、用心棒たちとともに、彼らの震える足がそうさせているかのように、大急ぎで逃げ出しました。

住人達が教会の中に入った時、人々はイザベルの涙で濡れた顔と、自分のシャツを引き裂いた布切れを包帯にしていた、傷だらけのディエゴを見つけました。教会の鐘は激しく鳴り続けていましたが、鳴らしている人はいませんでした。

ドン・ロペですが、慌しく退散しただけで許されたわけではありませんでした。彼の一味が負け、町が静かになったすぐ後、権力悪用の罪でドン・ロペは逮捕され、処刑されました。2か月がたち、ディエゴは再び、瀕死の時に助けられた壁のある教会の中にいました。

あの劇的な夜、自分を救ってくれた人が誰なのか知っている彼は、祭壇の前で跪き、感謝の祈りを止めませんでした。あの方は、トレドでは人々がすでに「切り傷を負ったキリスト」と呼び始めていた、慈悲のキリストだったのです。そして、彼のそばでは、同じように、跪いて祈るイザベルがいました。2人が人生と運命を永遠に共にする瞬間を待ち望んでいるとき、彼女の美しさ、柔らかさ、甘い愛らしさは、無垢なウェディング・ドレスの中で一層輝いていたのでした。

「苦い井戸」の伝説

言い伝えによると……

毎晩、彼らはこっそり会っていました。彼らの密会を脅かす全ての監視の目を交わす努力をしながら。そのように、彼らは一緒にいたのです。月だけが、彼らの短い逢引きの共犯者でした。

彼フェルナンドは、誰にも見つからずに家を出た後、急いで彼女の家に駆け付けました。彼の母、ドーニャ・レオノールが、夜の習慣のロザリオの祈りを始めるのを待ってから家を出ると、この貴族の家の使用人たちもまた、邸宅の表玄関を閉め始めていました。

フェルナンドが、若いラケルの家に向かって道を慎重に歩き始めた時のことでした。

ラケル、美しいラケル。彼の恋人、ラケル。彼女はユダヤ人の富豪の娘で、大きな屋敷の外に出ることはほとんどない生活を送っていました。厳格な父親が、家の中の用事を指示していました。おそらく父親の耳には、噂が届いていたのかもしれません。もしかすると、この若いキリスト教徒のことが伝わっていたのかもしれません。レビが律法で禁じられた愛を許すはずがありませんし、自分の家から裏切り者が出ることはなおさら許しがたいことでした。そのため、彼の娘をずっと監視していたのです。

夜になり、町が眠りに落ちた時、ラケルは部屋の格子窓の後ろで待ち焦がれていました。合図が聞こえ、彼女が庭に駆け寄ると、今夜もまたこっそりやって来るのに成功したフェルナンドがいました。そしてそこで、いつものように、ふたりの愛を誓うのでした。将来について、お互いの気持ちについて話し、顔を見つめ合うのでした。彼らは互いの神様に感謝したことでしょう。そんな風に、彼らは幸せでした。立法も、この瞬間を壊す人がいることも、考えなかったからです。

庭の茂みの中で、何かが聞こえました。静けさの中に、木の葉のかさかさする音が響いていました。フェルナンドとラケルは、驚いて目と目を合わせました。若い2人は黙り込んでしまいました。辺りを見回しましたが、全ては静まり返っていました。目と耳を澄まして用心しながらも、2人はその瞬間を心ひそかに待ち望んでいました。心臓の鼓動は早くなって……。夜の気配が静かであればある程、2人は安心することができました。声を出す勇気はなかったのですが、お互いに微笑み合うと、彼女は細い指で、フェルナンドの目を閉じながらほっと溜息をつきました。ラケルはハッとしました。彼女の指と指の間から、恋人の手が滑りこんでくるのを感じたからです。

ラケルにとって、血が凍るような出来事でした。フェルナンドが、死んで地面に横たわっていたのです。よく研がれた両刃の短剣が1腰、心臓に届いていました。レビがあてがった監視たちが、仕事を全うしたのでした。背中に受けた確かな一刺しが、若いキリスト教徒を死に至らせました。

レビの家では、名誉は守られ、律法に触れることはなく、噂は収まりました。ラケルは夢から覚めたいと思いました。しかし、あの時目にした光景は、夢ではなかったのです。彼女が見つめていたのは、本当に生々しい恐怖の現実だったのです。

その瞬間から、沈痛が彼女にとり憑きました。まるで毒が彼女を満たしたように。そして心の中では、夜が明けることはありませんでした。庭の井桁に腰かけ、ラケルは1人で長い時間を過ごしました。苦い涙が頬を伝って流れました。彼女の魂から溢れ続け、苦い流れとなり井戸の中に注がれ続けたので、井戸水もまた苦くなりました。

ラケル、悲しみにくれたラケル、彼女はただ永遠に泣き続けることだけを望みました。濁った眼に、井戸の奥深く、光がぼんやり見えました。月が水に映りこんでいたのでした。彼女は泣きやみ、涙をふきました。井桁から身を乗り出して、フェルナンドの姿を見ようとしました。彼女の目は、再び明るくなりました。フェルナンドは彼女に笑いかけ、両腕を伸ばして彼女の腕を求めました。彼女はそれを疑いませんでした。彼女は恋人の腕の中に抱かれるために飛び込みました。彼女の泣き声はもう永遠に聞こえてきませんでした。永遠なのは、彼の抱擁でした。

「棒人間」の伝説

言い伝えによると……

楡と栗の木の葉が満ちた秋のある朝、きらきら陽がさして暖かかったので、物知りのルイ・ロペス・デ・ダバロス(トレドの統治者の祖父)と、ダマスキナード職人のベルナルディーノ・モレノ・デ・バルガスが、エスキビアス村の祭りの準備についてのんびりと話していたときのことです。2人がいる広場に向かって歩いている、カルロス5世王の時計職人が、30歩ほど離れたところに見えました。この時計職人は、フアネロ・トゥリアーノというあだ名で知られていました(イタリアのクレモナにある彼が生まれた時の洗礼盤には、ジョバンニ・トリノと書いてありますが)。意外だったのは、技術師で数学者でもあるこのイタリア人の時計師が歩いているのを見かけたことではありません。フアネロは、毎朝、彼の使用人ホルへ・デ・ディアナと一緒に、神父さんや職人さん、学士さんや商人、宮廷人や庶民たちと温かい挨拶や抱擁を交わしながら散歩するのを日課にしていたからです。町の人々は皆、フアネロと、彼が発明した装置が、城壁の町の渇きを癒してくれることを忘れていませんでした。

1560と何年かのこの日の朝、物知りのルイとダマスキナード職人ベルナルディーノの困惑したまなざしは、彼の風変わりな散歩の相棒の上に注がれました。フアネロの隣で、まるで朝早くから飲んでいたエル・トボソの葡萄酒が効いたかのようにふらふらしながら歩いていたのは、彼の使用人のホルヘではなかったのです。

フアネロと彼の謎に満ちた大股歩きの相棒が、ルイとベルナルディーノのところに着いた時、彼らはこのセサールの時計師に向かって言葉を発することも、カスティーリャ風の挨拶をすることもできませんでした。翼のあるドラゴンの背に乗った堕天使ルシフェーの騎士を見たかのように、あるいは魔法使いに魔法をかけられたかのように、石のように固まったままでした。この2人のトレド人があっけにとられただけではなく、この時この場所にいたすべての隣人たちが、11月初めのこの日の朝に目にしたことを信じることができませんでした。地面に両膝をつけて、信仰している神様仏様聖人様に、これから起こることからどうか心身ともに守ってくださるようにと、熱心に祈ってしまう人さえいました。

隣人たちの困惑した姿とは無関係だったフアネロ・トゥリアーノは、地面に倒れないように彼の相棒の身体を支えながらエピスコパル宮殿に向かって、細い道を歩いていました。みんなに称賛ではなくて恐怖を巻き起こした本当に不思議なその「相棒」は、誰の目から見ても機械仕掛けの「木の棒」以外の何物でもありませんでした。その姿があまりにも優雅で巧みに動いていたので、その日の朝中、サン・マルティン橋からソコドベール広場に至る市場という市場で、手作りの品を大声で売っていたなめし職人や銀細工師や陶工たちの喉の渇きをいやす噂話になりはしたものの、誰も「彼」のことを羨ましいとは思いませんでした。フアネロ・トゥリアーノは翌朝もまた、彼の機械仕掛けの相棒とともに同じ道を散歩しました。奇妙な姿が人々の関心の的になったのは昨日と同じでしたが、この朝は、いつものように人々が、カルロス5世のイタリア人時計師フアネロに温かい声をかけ、彼の発明の功績をたたえる挨拶を交わしました。なぜならこの日、トゥリアーノの機械仕掛けの相棒が、帝国軍の行進のように大股で闊歩していたからです。あの遠く懐かしい1526年3月11日の明け方、カルロス5世と、彼が生涯愛したイザベル・デ・ポルトガル女王が教会法によって結婚したので、それに合わせてトレドでは、セビージャの王宮貴族の肖像画を家に飾り、道を帝国軍風に威勢良く歩くことが流行っていたということもあるでしょう。

ヨーロッパの広大な領土に命令を出すために皇帝が使用した花火と同じくらいか、あるいはそれ以上の大きな声で「彼」の噂が流れたので、トレドの町中の人々が注目する歴史的な朝になりました。何百人ものトレド人が、フアネロ・トリアーノの新しい発明である「棒人間」を自分の目で見ようと早起きをしました。そして、聖体祭の神輿を見ようとするような、終わりのない列が道にでき、エピスコパル宮殿へ向かうフアネロが家から出るのを忍耐強く待っていました。異端審問所の代表者たちさえ、イタリアから来たカトリックの模範者フアネロ・トゥリアーノの心はルター派と異端者に感化され、支配されていると勘ぐり、この騒ぎに参加していました。

時計師フアネロ・トゥリアーノは、いつもと同じ時間に家を出ましたが、機械仕掛けの「棒人間」が歩くはずの道に沿って何百人ものトレド人が集まったので、大混乱の原因となったその主役とではなく、普段の散歩の相棒ホルへ・デ・ディアナと一緒だったので、集まった人々の落胆ぶりは相当なものでした。近所の人々は声をあげ、こう聞きました。「セニョール、今日は、トレドのみんなの噂になっている、ここに集まったみんなが一目見たいと望んでいる、貴方の有名な『棒人間』をどこに起きてきちまったんですかい?」 帝国の町の辛い冬の前触れのように寒い朝だったので、セゴビアの毛織物のマントで身体をくるんだフアネロは、彼に質問を投げかけて来た一群に向かって、ゆっくりと、イタリア訛りのあるしゃべり方で、こう答えました。「みなさん、落ち着いてくださいな。棒人間と皆さんが呼んでくれるあいつは、私には、気晴らしの楽しみで、おもちゃなんですよ。お天道様がこの広場の霜を取り除く頃には、私の住まいを出るでしょう」 そう言うと、フアネロと彼の使用人は、アルカンタラ橋に向かって、彼が作った大水車とその小屋がちゃんと動いているかどうか、そして、アルカサルの水補給装置きちんと流れているか、具合を確かめるために歩いて行ってしまいました。しかしフアネロの家の周囲に集まった人々は、棒人間が家から出てくるところが見える特権的な場所から、誰ひとりとして、動こうとしませんでした。

家の玄関を開けた女主人が、機械仕掛けの棒人間が散歩に出ようとするのを助け、道の真ん中まで、丁寧に支えてあげました。続いて棒人間は、右足を前に出し、歩き出そうとしました。そして何回も、うやうやとお辞儀をしたあと、その日、当時のこの教区の高位聖職者タベーラ枢機卿によってカテドラルの建築施工師に任命されていたフアネロ・トゥリアーノに代わり、報償であるパンと肉と塩を受け取るため、大司教宮殿まで行きました。到着し、その食料を受け取り、たすきのように肩から背中にかけていた小さな袋に入れると、彼は身体を半回転させ、彼の主人が待ちわびている家に向かって、今来た道を戻って行きました。棒人間のこの散歩は、トレド人すべての喜びになり、この時から、自分たちの隣人こそ、この時代に生きていた科学者の中でも最高の天才で賢人だという確信が一層強くなったのでした。

このように棒人間はトレドの人々に気に入られ、関心の的となり、フアネロの機械仕掛けの人を見るためわざわざお隣のマドリードや近くの村からも人がやって来て、棒人間がフアネロと一緒に時間通りに、あるいは朝早く1人で、フアネロの立派な屋敷と、彼の訪問を楽しみに待つ聖職者たちのいる大司教館の間の道を行ったり来たりするのを見物したのでした。「話さないだけだね、足りないところは」と言ったのは、棒人間がフアネロに代わってパンと肉と塩を受け取りに来た時、生まれて初めて機械仕掛の「人間」に聖職禄を与えたカテドラルの神父サトゥルニオ・ベジードでした。棒人間の人気は、彼にとって横切るのが非常に難しい細い坂道が「棒人間通り(Calle del Hombre de Palo)」と命名されたことからもわかります。大司教館があった広場からソコドベール広場に続く細い道です。

棒人間は、このように、トレド人に気に入られ、関心の的となり、フアネロの機械仕掛けの人を見るためわざわざお隣のマドリードや近くの村からも人がやって来て、フアネロと一緒に時間どおりに、あるいは朝早く1人で、イタリアの賢人の古くて立派な屋敷と、彼を楽しみに待つ聖職者たちのいるトレド法曹界の宮殿の間の道を行ったり来たりするのを見物したのでした。「話さないだけだね、足りないところは」と、棒人間がフアネロに代わってパンと肉と塩を受け取りに来た時、機械仕掛の「人間」に生まれて初めて聖職禄を与えた大司教の祈祷師(番人)サトゥルニオ・ベジードは言いました。この機械仕掛けの人の人気は、彼にとって横切るのが非常に難しい、細い坂道が「棒人間通り(Calle del Hombre de Palo)」と命名されたことからもわかります。大司教宮殿があった広場からソコドベール広場に続く細い道です。

このように、彼は「棒人間」としてトレドの千年の歴史に不動の地位を残しました。そして今日も尚、この機械仕掛けの棒人間が、2バラ(1バラ83.59㎝)の高さであったこと、手足がちゃんと動き、優雅に散歩したこと、あるときは宮廷人の衣装をまとい、またあるときは司法官の付け襟を付けたりしたこと、トレドっ子たちを虜にした温かい挨拶を決して忘れなかったことが、人々に記憶されています。16世紀、トレドは王国の首都ではなくなってしまうのですが、彼の名を冠した道は、今も残っています。人々の棒人間への愛着は非常に深く、子ども合唱団が彼に本当の人間になってもらい、城壁の町トレドの新しい隣人として彼を特別に扱いたいと言いだすほど、ちびっ子たちの熱意も強かったので、棒人間はドン・アントニオの名前で洗礼を受けました。名門の家柄ではないとはいえ、ジョバンニ・トリアーノの家系図に「ドン・アントニオ・トゥリアーノ・棒人間」と書かれては、皇帝カルロス5世お抱えの時計師の手によって作られた「人」にはふさわしくないですし、ご先祖様に恥をかかせてはいけないので、苗字はつけなかったということです。

「シャレコウベのキリスト」の伝説

言い伝えによると……

グスタボ・アドルフォ・ベケールは、1862年7月16、17日付けで、新聞「同時代人」に、「シャレコウベのキリスト」という題名の伝説を発表しました。トレドの風景描写がはっきりと描かれていて、まるで彼の他の作品のようでした。B・ビダル・レブエルタによると、このロマンス派の詩人は、トレドとこの町の歴史を熟知していたということです。

1778年の街には、「セコ広場(乾いた広場)」とサン・フストの坂道の近くに、すでに「シャレコウベの十字架」という小さな広場がありました。この名前は、足元にシャレコウベのある十字架に架けられたキリスト像の存在に由来しています。恐らくバロック時代の影響でしょう、油の小さな街灯によって照らされていました。

J.ポレスによると、このキリスト像は恐らく、19世紀の第1回カルリスタ戦争の頃、市庁舎によって取り去るよう命じられたか、月日が過ぎゆくとともに修復がきかなくなった損傷を受け、終に消滅してしまったか、ということです。J.モラレダは、この点について、『キリスト…』が書かれた時代、1916年には、すでに「その場所から捨てられた」ということになっているものの、カベサ広場(頭広場)か、アブドン・デ・パス広場にあったと指摘しています。モラレダの短い文章で興味深いことは、この彫刻が「あまり芸術的ではなく」、「ベケールの優れた筆によって表現された愛のエピソードがこの話を有名にした」ということです。

ベケールは、トレドに滞在していた間、この十字架を見つめることができたでしょう。しかし19世紀には、この十字架はすでに消失していたに違いありません。とはいえ、それが確かに存在していたことは、トレドの地名から明らかです。J・ポレスによれば、1864年の地名表にはかつては魚坂と呼ばれていた道が「シャレコウベ坂」として出てくるのです。サン・フストの坂道に向かって、トロの袋小路あたりの同名の道筋に、シャレコウベのキリストの十字架はありました。

ベケールはこの十字架を眺めている間、シャレコウベという伝統的な名前からトレドの歴史を理解し、ロマンチックで中世の事件を感じさせる魅力的な話がひらめき、彼の才能と空想力による豊かな話でこの伝説を再構成しました。そういうわけで、シャレコウベのキリストの伝説の由来は、伝統にではなく彼の才能にあるとされるべきでしょう。

正確な日付はわかりませんが、おそらく、ナバス・デ・トロサの戦いのほんの少し前の1212年頃か、あるいは1340年のサラド川の戦いに先行していた日々だったかも知れないと、F.ビダル・レブエルタは、述べています。カスティーリャの王が、イスラム教徒に対して軍事遠征をするために集合したというのがベケールの話の前提です。遠征の前日、王宮アルカサルの大部屋で別れの盃を交わす夜会が開かれ、トレドで最も美しいドーニャ・イネス・デ・トルデシーリャスも列席することになりました。尊大で冷淡な性格にも関わらず彼女は、名門の血筋を惹くアロンソ・デ・カリージョとロペ・デ・サンドバルに求愛されていました。

この2人の騎士は、別の部屋で席についているドーニャ・イネスを見て、次第に激化する「華麗なる争いと愛の言葉」を開始する絶好の機会にしました。この淑女は、彼らの勝負と衝突を避けるために、彼らと同席する部屋には行かないことにしましたが、すっと立ち上がった時、彼女の手袋の片方が落ちてしまいました。2人は同時にそれを拾おうとしました。しかし、まだ手袋が落ちる前から、2人の決闘風景を見ようと、回を追うごとに多く集まる人たちの間を王が割って入り、2人の手をよけてそれを拾い、次はもっと気をつけられるようにと警告しながら、彼女に渡しました。彼女を愛するこの若者たちは、この出来事を忘れることができませんでした。

夜会が終わって夜中になり、アロンソ・カリージョとロペ・デ・サンドバルは、王が仲裁した喧嘩に決着をつけようとしていました。しかし、今は観衆も、愛する女性もおらず、あるのは互いの手の中の武器だけです。決闘を始めるために、人気がなくて明るい場所を探しました。幾本かの通りを歩き回った末、十字架脇の街灯が光を放つ場所に来ました。その十字架上のキリスト像の足元にはシャレコウベがついていました。街灯が放つ弱い光に助けられながら決闘を始めましたが、細い剣を1回交わしただけで、その炎は消えてしまいました。戦いを止めた時、炎はまたひとりでに戻りました。これが3回起こりました。2人の若い騎士は恐怖にかられた上、奇妙な声を耳にしたので、神がこの戦いをお望みではないと理解しました。これまで親友だった2人の若者は、以前のように抱き合いました。

 

「首斬りの川」の伝説

言い伝えによると……

アルフォンソ6世がトレドの町を無血開城した勝利を、トレドのキリスト教徒が大喜びしていた日のことです。喧嘩や小競り合いがないように、狭く窮屈な道をカスティーリャの騎兵や歩兵が巡回しながら見張っていました。そのうちの1人で、若くりりしく、勇猛果敢な大尉ロドリゴ・デ・ララの目に、2連アーチの窓辺に、この上なく美しいモーロ人の女性の、顔も、ほっそりした姿も隠さずに、彼の威勢のいい馬の跳躍をうっとりとみている姿が留まりました。ロドリゴは、彼女の思わせぶりで甘い笑顔と、切れ長で黒い瞳の涼しげなまなざしにすっかり魅了されたまま、仲間の護衛を従えて2回余計に彼女の家の前を巡回しました。その日から、格子窓の下の若いイスラム教徒の女性にまた会いたいと願いながら、彼女の家の前の道を巡回することを決して怠りませんでした。

スレマ、あるいは、サイラ(彼女の名前はこう呼ばれていたようで、古い年代記にはそう記されています)は、金持ちの婿探しに骨を折っていた大地主のイスラム教徒の娘でした。父親の厳しい監視の下に生活し、外出する喜びや外の喧騒はおろか、ソコドベール広場の市場で香水商が売るバラやジャスミンの花の香りも知りませんでしたが、スレモには、身の回りの世話をするキリスト教の奴隷がついていました。彼女はスレモに、イエス・キリストの話や、イスラムの王の娘で、キリスト教徒の囚人に食料をこっそり与えた聖カシルダの人生を語って聞かせていたので、スレマの心の中には次第に、キリスト教の懐に受け入れられたイスラム教徒のお姫様の名前カシルダを洗礼名として洗礼を受けたいという、生き生きした願いが芽を出しはじめていました。

この忠実な奉公人は、若い女主人の願いを知り、あの勇敢な騎士とうまくいくようにと水先案内となったので、スレマの格子窓には、彼がこっそりと、頻繁にやって来るようになり、奉公人は夢と希望にあふれた恋の誕生の目撃者になりました。

スレマは恋人に、キリスト教徒になりたいこと、洗礼名をカシルダにすること、彼女の背信行為によって、イスラム教徒の反対者から仕返しを受けるから身を守ってくれる男性がそばに必要だという話をしました。彼は、彼女の名誉を尊び、彼女と結婚すると誓い、彼女の奉公人の助けを借りて逃亡を準備しました。スレマの父親はちょうど留守でした。月が出ておらず、道にも人の気配がなく、屋上の見張り人も1人もいない晩で、本当に絶好の機会でした。ロドリゴは、家のそばの角を見張っていました。彼はマントで顔を覆い、愛しい女性を駿馬に乗せ、近くの城の礼拝堂に向けて、一目散に馬を走らせました。そこでは彼女に洗礼を授け、結婚を祝う神父が待っていたのです。アルカンタラ橋の塔に着いた時、哨兵たちが彼に停止を命じました。勇猛果敢な騎士ロドリゴが、王の軍隊の大尉であること名乗り出ると、彼らは表城門を開けて彼を通し、幸せの運命とつながるキリスト教の道を駆け続けました。

夜が明け、大モスクの影とアルカサルの塔が遠くに見えたので馬上で安堵していると、彼らをじろじろ見るイスラム教徒の騎馬兵2人とすれ違いました。彼らは、絹の薄い布を頭にかけ、手や足にはヘンナできれいな絵が描かれているイスラム教徒らしき若い女性が、キリスト教の男性の馬に乗っているのを見た時、人さらいだと思い、ロドリゴを厳しく問い詰めました。大胆不敵なこの騎士は、この侮辱に耐えられず、彼らの馬の鞍を蹴飛ばして、この攻撃者の追跡をかわそうと、めまいのするほど早く駆けましたが、川の谷間に着き、岩の多い斜面を急いで横切ろうとした時、地面に落ちてしまいました。イスラム教徒たちがとうとう彼らに追いついて競り合いとなり、1人がスレマの細い首に新月刀で致命的な傷を負わせました。

恋する大尉は、彼の愛する女性の深い傷を見た時、怯まず刺客を殺してから、もう1人を逃がしました。スレマの息がまだ残っていたので、彼は被っていた冑をとり、彼女が望んだとおりカシルダと名付けながら川の水で彼女に洗礼を授けたと、この伝説は伝えています。その後、彼女の動かなくなった身体を腕に抱き、駿馬に乗せ、馬を走らせつづけました……。鉄の塔に着いた時、谷の聖母(ビルヘン・デル・バジェ)の桟橋近くで護衛に助けを求め、彼の恋人の亡骸を、キリスト教の埋葬をしてくれるサン・ルカスのモサラベ教会まで運ぶため、ちょうどそこに付けてあった渡し船でタホ川を渡りました。悲しく、時間が長く感じられる船出でした。

それから数日後、若くりりしい騎士が、サン・セルバンド城のクルニュー修道院の門を叩きました。世捨て人となったロドリゴ・デ・ララでした。彼は、あの時イスラム教の家の二連アーチの窓から彼に微笑んだ、血に倒れたイスラム教徒の少女のそばにいたかったのです。修道院長は、彼に、毎夕、聖カシルダという洗礼名を希望したイスラム・キリスト教少女が最後に目を閉じた川岸まで行って祈ることに、特別許可を与えたということです。

習慣と伝説を熱心に守るトレド人は、この美しい愛の話しを忘れることはなく、ラ・レグアとラ・シスラの上方からはじまるタホ川下流の小川を、いつしか「首斬りの川」と呼んでいたという話です。

「情熱の薔薇」の伝説

言い伝えによると……

トレドのユダヤ人女性サラは、大変美しい少女でした。彼女が16歳になったとき、類まれな美貌と母を亡くしたことで、父親が世話を焼きながら箱入り娘として育てていました。

父親は、ダニエルと言う名前でした。彼は素晴らしい宝石細工職人で、壊れた台金を修理し、鎖を繋げ、時には留め具や取っ手など、たくさんの道具も直していました。良い仕事をするので、隣人たちや行商たちに大変喜ばれ、腕利きの職人だと大評判でした。トレドのユダヤ人社会でも大変影響力があり、彼らの間では、ダニエルは考え深く、尊敬できる人物だと言われていました。近所のキリスト教の住人たちは、彼をケチで意地悪だと陰口を叩いていましたが、彼が金持ちだと知るところりと態度を変え、仰々しく、服従的になりました。

13世紀か14世紀頃の話だったのでしょう。この伝説は、トレドの小ユダヤ人街という異人種地区に住むダニエルとサラの家が背景になっています。彼らは自発的に、モサラベ教区のキリスト教信者やフランス人やイスラム教から改宗したキリスト教徒もいる、サンタ・フスタ教会のミサに行きました。1階の工房と2階の住居は、狭い螺旋階段で繋がっていました。仕切り戸があるにもかかわらず、日中は道を通る多くの人に内部が丸見えの1階の陰気な工房で、父親ダニエルは仕事をしていました。

少女は、幽閉されたような生活に耐えていました。買い物がどうしても必要な時だけ、例外的に外出が許可されましたが、遠くに行くことはできませんでした。なぜなら、彼女が必要とした紐、レース、針、クシなど品物を手に入れるたくさんの小屋が近くにあったからです。また、父親が不在の時は、言いつけられた仕事をやっておかなければなりませんでした。

これら入用の品々を買いに行ったある日、サラは若くて誠実ですてきなキリスト教徒に出会いました。若いふたりは激しく恋に落ち、狂おしく求め合い、間隔をあけて会いました。若者は、彼女が隠れたように暮らす家の周囲を徘徊し、隠れ窓の小さな穴を通して彼女は彼と次の密会を約束しました。

サラを息子の嫁にと考えていたユダヤ人たちは、彼女がキリスト教の青年と時々こっそり会っていることをユダヤ人の父親に告げました。最初、父親は信じることができませんでしたが、彼の耳に噂話がいつまでもしつこく届き、家の窓に向かって視線を上げて通りを見つめる娘の姿を、見たくないのに何度も目にしたので、噂話が本当だということが分かったのでした。

父親は非常にいらいらしながら、外に出たいという彼女の非常に不名誉な望みを阻止しました。和解しあえない宗教の対立で、互いの極端な不寛容を告発し合う時代がやって来ました。ダニエルは同じ考えを持つユダヤの仲間と集まり、恥知らずな恋人たちの罪を抹消する行動にとりかかるため、企みを練りました。

聖金曜日の夜、不穏な動きが川の両岸に漂っていました。船着き場(砂場)から急斜面のある向こう岸へと渡る船の中は、ベールをかぶって顔を隠した男たちでごった返していました。対岸で船を降り、川岸の斜面のジグザグした道を上りきると、頭巾を被った男たちは左方向に身体を回し、ローマ教会跡の平らな場所に集まりました。夜道を歩く人々など、ユダヤの名誉と血統を守る準備をしていた、そわそわしながらも妥協しない父親ダニエルと仲間たちの他には、誰もいませんでした。

ある兆候を感じていたサラは、企てられた陰謀に気が付き、直ちにこの危ない計画を阻止するために走りだし、不安の中、復讐に燃える悪党たちの後を付けました。サラは、さきほど行った連中が乗ったのと同じ船頭の船に乗り、船頭や乗客の話にそば耳を立て、状況を一早く理解しました。船が対岸に着くやいなや、一目散に道を駆け上がると、運よく彼女の恋人に追い付くことができました。彼はよい仕事があると騙され、約束の場所まで歩いているところだったのです。彼はそこで自分が殉教することを知りませんでした。若い恋人の勇敢な行動のおかげで、彼は命拾いしたのです。

彼女は、卑劣で許し難い父親の行動を強く非難するために、彼らがキリスト教の青年を殺す準備をしていた場所まで歩きつづけました。年老いたダニエル(この件でずいぶん長い時間が経っていたので、年老いてしまったのです)は、そこで、辛辣で威嚇的な役目を受けることを了承しているところでした。正気の沙汰ではなかった彼は、最大限の暴力を与えることを条件に引き受けたのです。彼女は心の底から、「キリスト教徒が娘を抱きしめた」と懺悔の告白までしている自分の父親と彼の仲間たちの信仰を呪いました。

娘サラは呪いの言葉を吐きながら、父親たちに今のやり取りを撤回するように強く求めたのですが、父親はそれを認めるどころか、サラとは親子の縁を切り、彼女の恋人のキリスト教徒に執行するつもりで用意していた生贄の刑を我が娘に与えようと、彼女を仲間に引き渡しました。怒りに燃えるユダヤ人ダニエルは、娘サラの髪を捕まえ、神に捧げる生贄として、引っ張り出しました。

譲歩できない職人ダニエルは、大いに気持ちが高ぶっていました。悪魔にとり憑かれたかのように、サラの孤立無援の状態を嬉しく思い、ユダヤの律法タルムードに従っている死刑執行人に、その昔、ナザレのイエス・キリストにしたのと同じようにしてほしいと頼んだのでした。こうして彼女は十字架にかけられ、棘のある王冠を頭に被せられた上、最も残酷な刑を求める父親の願いで、薪に火がつけられ、瀕死の身体は足元から焼かれたのでした。

何年かが過ぎてから、ある羊飼いが、彼女が犠牲になったあたりで、花びらにイエス・キリストのしるしが描かれている不思議な花が咲いているのを見つけました。非常に変わったバラだったので、大司教区長の大司教に紹介されました。大司教はその花が引き抜かれた場所を掘り起こすように命じ、とうとう、謎に満ちた植物の全貌が発見されました。その場所を徹底的に調べると、遺体が出てきたのです。議論を待たずとも、横たわっている亡骸はサラのものだと判断されました。

このコンベルサ(カトリックに改宗したユダヤ人)の少女の骨は、今は無き礼拝堂サン・ペドロ・エル・ベルデに移されました。新しい埋葬地として選ばれた、聖なる場所でした。

この花と同種のすべては、その時から、「情熱の薔薇」と名付けられました。

「ベガのキリスト像」の伝説

言い伝えによると……

ベガのキリストの伝説は、この類まれな愛の物語を見事な詩で表現した著名な作家ホセ・ソリージャの筆のおかげで、トレドだけではなく世界的にも普及し、よく読まれてきた物語です。

良い裁判官は、最良の目撃者

トレドは、イネス・デ・バルガスとディエゴ・マルティネスの夢の街でした。若い恋人たちは情熱の時を共有するために暗闇の中で秘密の密会を重ねていました。毎晩、青年ディエゴは家を出て、細い道や急勾配の路地を走って、彼を待ち焦がれるイネスの部屋から洩れるカンテラの光がぼんやり見える場所まで行きました。大きな古い屋敷を最初の光が照らす直前、ディエゴは彼の恋人の部屋から出てきました。この若者の訪問は、不幸な事件が起きるまで、このように、毎晩続きました。

ある日、イネスに別れを告げた後、青年は、いつものように、バルコニーからこっそり抜け出していました。石畳の地面に足を付けようとして前を向いた時、暗闇の間に男性の影を見つけました。彼はイネスの父親イバン・デ・バルガスと鉢合わせになり、当惑して、この卿士の叱責も聞かずに走り去りました。怒った父親は、イネスに、この独身者に結婚かもう決して合わないかのどちらかを提案するように懇願しました。ディエゴはそれを知ると、間もなくフランドル戦争に出発するが、帰還したら年末に彼女を妻にすると急いで応えました。イネスは、約束を絶対のものにしたいと思い、彼に、ベガのキリスト像の前で誓ってくれるように頼みました。彼は「僕の言葉で十分だろう? でも、もし君がもっと満足するなら」と言い、2人でトレドの沃野(ベガ)にある聖レオカディアの大聖堂へ向かいました。敷居をまたぎ、巨大な杉の木の間を抜けて、祈りが必ず叶うというキリストの像がある礼拝堂に着きました。その像に近付くと、若者は彼女に優しい手を差し伸べ、十字架上のキリストの足に触れました。彼女は聞きました。

「ディエゴ、帰ってきたら必ず私と結婚すると誓ってくれる?」

若者は答えました。

「もちろん、誓うよ!」

このように、2人は一緒に、喜びの表情で、手を繋ぎながら、幸せで前途有望な将来を夢見ながら、礼拝堂を出ました。

しかし、この時の運命は、彼らの思い通りにならなかった上、早く実現してほしかったことまで、不意に先延ばしになってしまいました。しばらくしてから、兵士たちが戦争から戻ってきたのですが、ディエゴは、戻らなかったのです……。

長い年月、ひと時も望みを捨てずに待ち望みましたが、心の中でもう戦争も彼との距離もわからなくなったイネスの美しい顔には、悲しみの痕が残りました。

毎日午後、キリスト・デ・ベガの礼拝堂を訪れた後、彼女は城壁に囲まれた街がすべて見渡せる高台の展望台へ向かいました。そこからは、カンブロン門もビサグラ門も、城壁の外にあるのがわかります。沃野の畑で働く農民たち、タホ川に網を投じる漁師たち……。しかし景色はいつも同じで、彼女の恋人も、まだ帰らないままでした。

前兆を示すようなものなど何もないように見えた、天気のよいある日、遠くで馬がギャロップし、厚い羊雲が抽象的に流れ、ふと頭をあげた時、彼女は待ち望んだディエゴの姿を区別することができました。馬の群れが近づいてくると、彼女は、7人の槍騎兵と10人の兵卒の先頭を行く騎手が、間違いなくディエゴ・マルティネスであることを確認するために、道を素早く駆けだして行きました。 「ディエゴ! 貴方なのね!」

彼女の口から出て来た言葉でした。しかし彼はピクリともせずに知らないふりをし、驚く将軍を前に、道を進んで行くのでした。

イネスは、悲痛な叫び声をあげ、卒倒しました。「何が起きたの?」 あんなに冷たい態度の答えがあるだけとは。あの青年は、ただの一兵卒から大尉に昇格し、帰還したら王が彼を騎士に命名することになっていたのです。

新しい社会的地位を得た彼に将軍は、彼の昔の質素な生活をもう彼に思い出してほしくなかったのです。少女はすっかり打ち負けて力が出ず、祈りと絶望の狭間で、何度も彼の誓いの言葉を思い出していました。しかし、彼は悲しみを感じるにはあまりにも遠いところに行ってしまい、彼女を軽蔑さえするようになっていました。

絶望し、もう何をしても無駄だと分かった時、彼女は、当時のトレドの統治者で、この2人のうわさを聞いた後、証人がいればよいと教えてくれたドン・ペドロ・ルイス・デ・アラルコンに、彼女の結婚話の裁判を依頼することに決めました。裁判では将軍もディエゴも否定したので、統治者は将軍にもう帰ってもよいと言いましたが、絶望した彼女は、最後の試みで、懇願しました。

「彼を呼んでください!」

「私には、決して嘘もついたことがなく、言い訳もしたことがない証人がいます」

「誰だ?」

「上から私たちを見てくださり、私たちの言葉をお聞きになった方です。

「誰かバルコニーにいたのか?」

「いいえ拷問にかけられた方で、亡くなられてから時間が経っています」

「なんだ、死んでいるのか?

「いいえ、生きていらっしゃいます」

「おまえは狂っているのか? おお、神様! それは誰だったのだ?」
「お顔に偽りの誓いが立てられてしまった、ベガのイエス様です」

陰気な沈黙が、次には大きな動揺がその場に溢れましたが、判事と統治者が、これ以上すばらしい証人はいないと宣言し、全員、教会に駆けつけました。ドン・ペドロ・デ・アラルコンが先頭になり、その後にイバン・デ・バルガスとその娘イネス、記録係、留め金師、衛兵、神父、卿士、使用人から子どもまでが続きました。

そその一群が到着した時、ベガにはすでに、興味津々の人たちとともに、剣を握り、銀のリボンが4本付いた帽子を被り、金の留め金のついた乗馬靴を履いたディエゴ・マルティネスがいました。一同、回廊に入り、蝋燭に火を灯した後、床に置かれた十字架上のキリストの像の前で祈りを唱えました。キリスト像の両側にはかつての恋人2人が、その後ろには、統治者が判事と衛兵が座りました。

公証記録人は、皆の前に一歩出て、2度、起訴状を読み上げた後、キリストの像に向かってくるりと回ると、大きな声でこう言いました。

「聖母マリアの息子のイエス様、
私たちの前で、今朝、
イネス・デ・バルガスの口から、
貴方が、ディエゴ・マルティネスと
イネスの結婚の誓いの証人だったことが
告白されました。
この誓いに間違いはないと、
貴方は誓いますか?」
キリストは、右手を下げ、信仰告白台の上に置きながら、叫びました。

「はい、誓います!」

釘が抜かれた右手と半開した唇を見た時、列席者たちはすべて、驚きのあまり微動すらできませんでした。

実際、ベガのキリスト像(Cristo de la Vega)は、今も右手を下げたままの姿で残されており、「クリスト・デ・ラ・ベガ」礼拝堂で拝観することができます。ここは西ゴート時代に建てられた聖レオカディア大聖堂で、ここでたびたび宗教会議が開かれた上、聖レオカディア、聖フリアン、聖エウヘニオ、聖イルデフォンソ、聖エウラリオや、高位聖職者、西ゴートの王様たちの墓地でもありました。

Leyenda de la Piedra o Peña del Rey Moro

Dice la tradición toledana que en las noches de luna clara y luminosa, se vislumbra una sombra flotando sobre ella y sus alrededores. Es el espíritu del príncipe Abul-Walid que sale de su tumba para contemplar las siluetas de las viviendas, jardines miradores donde cada noche paseaba con su amada reflejados en el resplandor lunar.

Corría el año 1083 y reinaba en Toledo Yahia Alkadir, nieto de Al Mamun. Alfonso VI cercaba la ciudad, arrasando las campiñas obligando a que el hambre hiciera rendirse a los musulmanes. Yahia recurrió a la amistad que le unía a Alfonso con su abuelo Al-Mamun ofreciéndole tributos, pero nada de ello hizo ablandar el corazón de Alfonso, que estaba ansioso por recuperar la ciudad que tanto bienestar le había ofrecido.

Yahia viendo que la ciudad en poco sería tomada y él no podría hacer nada, intento que los Taifas de Badajoz y Zaragoza le ayudaran pero estos esfuerzos no dieron frutos ya que el rey de Zaragoza murió antes de llevar a cabo su proyecto de ayuda y el de Badajoz murió tras ser derrotado por las tropas de Alfonso VI. Su única solución fue enviar mensajeros al otro lado del estrecho, al norte de África. Los reyes africanos escucharon la petición y antes de mandar ayuda decidieron enviar un mensajero para evaluar la situación y las necesidades reales, así les seria más fácil a la hora de saber que cantidad de ayuda mandar. La elección recayó sobre el joven guerrero Abul-Walid. Cuando el joven príncipe llegó a Toledo, este fue tratado como un héroe, ya que realmente sería su única salvación. Es por ello   que desde que Abul llegó no pararon de rendirle en su honor fiestas, torneos y grandes alabanzas, pero lo que realmente llamaba la atención del joven no eran las fiestas en su honor si no la joven y bella hermana de Yahia que día tras día ambos iban fijando mas minutos sus miradas en el otro. Así de esa forma los dos jóvenes se fueron conociendo y poco a poco enamorando, todos los días salina por la bella ciudad de Toledo recorriendo sus parajes, jardines, oliendo sus flores, la bella Sobeyha le enseñaba cada rincón de Toledo a cuál más bello, y más bello aún lo hacia tener a Sobeyha al lado.

Los dos jóvenes se enamoraron y cada día que pasaban juntos jamás lo olvidarían ninguno de los dos, Abul aunque enamorado no había olvidado lo que le llevo allí, tendría que volver a África para informar de lo que pasaba en Toledo y lo iba posponiendo hasta que un Día decidió que no podía posponerlo más.
            
La última noche antes de su partida los dos jóvenes se juraron amor eterno, ella le juró que le esperaría hasta que viniera y él le juró que regresaría y esta vez sería para no marcharse mas de su lado.

Mientras Abul se hallaba en África reclutando gente y preparando todo lo necesario para volver a Toledo  en ayuda de su amigo Yahia y con él mas intimo deseo de volver a ver a su amada, Alfonso VI se apoderó de la ciudad, que no pudo resistir por mas tiempo, Yahia tuvo que abandonar la ciudad pero no pudo llevarse a su hermana que había enfermado y al ver la tardanza de su amado, murió de pena. Pero antes de su muerte a un esclavo que desde pequeña le había atendido le dejo un último legado, que le dijera que había muerto pensando en él, pero que no intentara tomar la ciudad que se olvidara de ella y regresara a África.

No había pasado mucho tiempo cuando apareció ante Toledo un numeroso y espectacular ejercito Sarraceno, sin saber que la ciudad se hallaba en manos de los Cristianos, era Abul-Walid que después de resolver graves asuntos y de salir de una grave enfermedad se había repuesto para volver a estar junto a su amada.
         
Al llegar junto a Toledo las malas noticias llegaron a él, la ciudad había sido tomada por los cristianos,  y la peor de las noticias en Esclavo de Sobeyha le trascribía las palabras que había pronunciado su amada antes de morir, Abul se quedo muy triste y lejos de hacer caso a su amada acampo en los alrededores de Toledo, con intención de recuperar aquella ciudad que tantos buenos momentos le habían dado y que daba sepultura a su amada.
 
Los ejércitos de Abul ocuparon los alrededores de Toledo, al otro lado del río, junto  a los ahora llamados cigarrales y Academia de Infantería, y junto a sus generales empezó a estudiar las posibles ofensivas, esto llevo varios días, por las noches  en la peña más alta donde estaban acampados los musulmanes dicen que noche tras noche se veía la figura de Abul, mirando cada calle de Toledo por donde había paseado con su amada. Rápidamente los cristianos empezaron a temer la entrada de Abul ya que los comentarios eran diarios entre los ciudadanos, algunos decían que medía  dos metros, otros que era mas fuerte que un oso y día tras día eran mas los temerosos a los Árabes.

Por esto Ruiz Díaz de Vivar (El Cid)   que se encontraba en Toledo ideo un plan, y así se llevó a cabo. Una noche a favor de la oscuridad y sin que nadie lo esperase, se adelantó a las intenciones enemigas y salió de las murallas de Toledo con un numeroso ejercito, con mucho sigilo ataco a los musulmanes sin que nadie lo esperara, las sombras fueron sus mas firmes aliadas pues los moros llegaron a pelearse entre sí.

A la mañana siguiente, los musulmanes se dieron cuenta de su desastre y lo peor es que encontraron a su rey muerto, su cuerpo estaba cubierto de heridas y una flecha había travesado su corazón. Los árabes se rindieron ante el Cid y este los dejo volver a África, antes de irse a su rey lo enterraron en aquellas peñas, concediéndole el deseo de permanecer eternamente en ese lugar para poder contemplar aunque fuera de lejos la ciudad que acogió a su amada.

Pero la historia no acaba ahí, dicen los Toledanos que las noches de luna, al mirar a las piedras desde Toledo se ve el cuerpo del rey moro subida en la peña observando las calles y torreones de Toledo, por donde paseaba con su amada.

La leyenda del Baño de la Cava

Nadie sabe como murió Florinda, la hija del conde D. Julián, tras el hundimiento del imperio godo en el Guadalete; nadie supo la verdadera historia de amor que unió a esa hermosa mujer con el último rey toledano, Don Rodrigo, a quien siguen las crónicas castigando como culpable de la entrada de los árabes a España.

Pero este torreón solitario, cerca del puente de San Martín, sigue guardando el aspecto triste y nostálgico de aquellos sucesos que llevaron a Florinda la Cava a sumergirse para siempre en las aguas del río.

Don Julián, el gobernador de Ceuta, con su hija Florinda habitaban Toledo invitados por El Rey Rodrigo.

Ésta bellísima mujer acudía todos los días a la caída del sol a bañarse en las aguas del Tajo mientras Don Rodrigo contemplaba su cuerpo virginal desde las murallas de su Al Cazaba, desaparecida hoy de la parte de arriba del actual puente San Martín.

El deseo del monarca se vio cumplido a los pocos días cuando Florinda acepto unirse a sus brazos.

La felicidad embargaba la pareja, pero alguien se encargó de comunicar a Don Julián la deshonra de su hija en las manos del monarca.  
- Mi señor don Julián, traigo una noticia aterradora para vos – le comenta al gobernador ceutí un fiel suyo, y añade – Vuestra hija Florinda está siendo observada mientras se baña en el río por alguien de vuestra confianza.  
- ¿Quién es ese desgraciado que se atreve con ese semejante hecho? – le pregunta el gobernador furioso.
- El mismísimo rey, mi señor – le responde el sirviente.
- ¿Don Rodrigo?, ¡ no puedo creerlo !..., he de averiguarlo yo mismo y, si es cierto, mi venganza será terrible.

El gobernador de Ceuta montó en cólera y decidió vengar su honor ayudando a los musulmanes a entrar a la península. Y, efectivamente, los árabes poco después derrotaron a rey Rodrigo en Guadalete.  

Los hechos son estos pero ¿qué fue de los personajes de esta historia?.

Don Rodrigo, después de sufrir una depresión terrible, murió transformado en ermitaño; Don Julián y sus aliados fueron muertos por los mismos árabes, y Florinda, la bella Florinda, loca de dolor y de vergüenza, vino a terminar sus días en este mismo torreón, mudo testigo de estos hechos.  

Poco tiempo después de esto, los habitantes de esta zona junto a la Puerta del Cambrón y a San Juan de los Reyes, comentaban con terror la aparición de una mujer loca y desmelenada que recorría la orilla del río, gritando a veces y murmurando palabras sin sentido. Muchos intentaron pedirle explicación pero ella huía, sin que nadie pudiera seguirla.

¿Era la bella Florinda?. ¿Era un espectro, o un ser humano?. ¿Era real esta mujer o sólo fruto de la imaginación?. Preguntas que dieron muchas leyendas. Pero aquella mujer no quería ver a nadie, sólo parecía querer vivir en la sombra hasta que desapareció y nadie volvió a verla.  

Años después, un hecho extraño vuelve a revivir estos acontecimientos.

En pie sobre el torreón, cuando la tempestad envolvía la ciudad, aparecía una figura sin vida, con el cabello suelto al aire, volviendo su triste mirada a todas partes.

Algunos fieles acudieron al valle, para buscar remedio para ese mal, a un viejo ermitaño, que se acercó una noche a este lugar y al que, tras muchas oraciones, se le apareció la figura que le describieron los testigos.

- En nombre de Dios, el misericordioso y todopoderoso, ¿quién eres, alma en pena y qué buscas cada noche en estos parajes? -le manifestó el ermitaño a la figura, mientras procedía a realizar su rito.

De repente, la mujer se llenó de vida aquella noche y le dijo con una voz agonizada:  

- “Yo soy Florinda la maldita, Florinda la Cava, la hija impura del conde D. Julián. Cuando supe que España era, por mi crimen, esclava de los hijos de Mahoma, una voz interior se alzó en lo más profundo de mi alma, mandándome venir, sin tregua ni descanso, a este lugar de mis culpas, a buscar mi honor perdido en el Tajo. Perdí la razón, pero no lo bastante para dejar de oír esta voz acusadora; mi vergüenza y mi dolor me mataron; aquí, en este sitio, testigo de mis torpes placeres, yace insepulto mi cuerpo; mi alma aparece todas las noches, en penitencia para llorar eternamente mi falta; y evocada por mi llanto, el alma de Rodrigo baja también a llorar la suya a las rotas almenas de su palacio. Bendice en nombre del altísimo este lugar maldito, y mi alma no volverá a aparecer en ellos.”  

Tras un instante, la sombra desapareció en medio de los humos de incienso que habían envuelto el lugar.

El ermitaño bendijo el lugar en nombre de Dios, rezó por las dos almas, y desde aquel día no volvió a verse en Toledo la sombra de Florinda.

Este sitio usa cookies de navegación, que recogen información genérica y anónima, siendo el objetivo último mejorar el funcionamiento de la web. Si continuas navegando, consideramos que aceptas el uso de cookies. Más información sobre las cookies y su uso en POLITICA DE COOKIES